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 JAZZ雑学・エピソード    



初のジャズ・レコードはどちらに ◉ 
ジャズ・レコード というからには、ここからまず話を始めなければならない。むろんオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)の史上初のジャズ録音のことである。彼等は1917年2月26日、〈リバリー・ステイブル・ブルース〉と〈ディキシー・ジャズ・バンドワン・ステップ〉を ビクターに録音した。そしてこれが同年3月7日に発売され、初のジャズ・レコードとして宣伝された。ところがODJBは、これに先立つ同年1月24日、〈インディアナ〉と〈ダークタウン・ストラッターズ・ボール〉をコロムビアに録音していたのである。当時は機械吹き込みの時代。両者のエンジニアはバランス調整に苦労し、結局コロムビアはこの録音をお蔵入りにした。だが発売されたビクター盤は大ヒット。コロムビアは慌てて自社の録音を5月31日に発売したが、すでにビクター盤が "初"として出回った後だった。
 
プラスチック製サックスを吹く巨人 ◉ 
サックスは大半が真鍮を素材にしている。熱伝導を考えると金や銀が最良だが、コスト的に大変なことになってしまうから、アラブの大金持ちでもない限り真鍮製のサックスを吹くことになる。しかし過去にプラスチック製サックスが実用化されたこともある。有名なのはチャーリー・パーカーが吹いたモデルで、ボディがすべて白色プラスチックで作られていた。ただしピストンやタンポ皿は金属製で、一説によると史上名高いマッセイホールのライヴではこのサックスが用いられたと言われている。ただしジャケット写真には普通のサックスが写っている。又もうひとり、オーネット・コールマンも「ジャズ来たるべきもの」でプラスチック製のサックスを抱きえていた。
 
思いがけないクリスマス・セッション ◉ 
ジャズ史上に最も名高い喧嘩セッションといえば、マイルス・デイヴィスとセロニアス・モンクのそれだろう。1954年12月24日、スタジオに集まったのは彼らの他にミルト・ジャクソン、パーシー・ヒース、ケニー・クラークの計5人。つまりモンクとジョン・ルイスを入れ替えれば、マイルスと当時のMJQの共演だが、プレスティッジのボブ・ワインストックの意向でルイスがはずされた。マイルスはこの時、モンクのオリジナル〈ベムシャ・スイング〉は仕方ないが、他の曲では自分のアドリブ・ソロ中にピアノのパッキングをつけるなと注文を出した。2人の間には険悪な空気が流れ、殴り合ったとも言われるが、実際にはモンクがムッとして、スタジオに緊張感が漂ったという程度だったらしい。ともあれセッションは張りつめた空気の中で進行し、「バグス・グルーブ」と「マイルス&ザ・モダン・ジャイアンツ」の2大名盤を生んだ。 
 
レコーディング時の貴重なドキュメント ◉ 
1956年11月、マイルス・デイヴィス・グループから一旦離れたジョン・コルトレーンは、セロニアス・モンクに師事して音楽理論やサックス技法を学んだ。そのモンクは57年、コルトレーン、コールマン・ホーキンスのテナー・サックス、その他アルト・サックス、トランペット4管による編曲を完成。6月25日からプレスティッジに録音するが、セプテットの各メンバーのツアーの予定もあって、翌26日一晩のうちに仕上げたのが「モンクス・ミュージック」と、「ウィズ・ジョン・コルトレーン」での2曲である。ユニークな構成、打ち合わせの不備、勘違いなどによって多くのハプニングを生んだ。モンクがソロを待つコルトレーンの名前を二度も呼ぶ有名な〈ウェル・ユー・ニードント〉、又ホーキンスがソロを途中で中断してしまう〈エピストロフィー〉など、通常の価値基準では世に出なかったであろう演奏が収録される。 
 
マイルスのジャケットへのこだわり ◉ 
マイルス・デイヴィスの「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」のジャケットに美女が写っている。彼女の名はフランシス。1960年12月にマイルスと結婚した女性で、マイルスは61年3月録音のこのアルバムで彼女の写真をジャケットに使うようコロムビアに要求し、それが受け入れられた。同年4月録音の" ブラックホーク " におけるライヴのジャケットにも、彼女の顔が登場する。マイルスのコカイン中毒に悩んだ彼女は64年に彼から去るが、少し前に、庭先で写した2人の写真が65年1月録音「ESP」のジャケットに使用された。その後もマイルスは、67年録音「ソーサラー」では女優のシシリー・タイソン、68年録音「キリマンジャロの娘」ではシンガー・ソングライターのベティ・メイブリーと、いずれも交際中の女性の顔をジャケットに使っている。 
 
まず歌手を、次にタイトルを決め ◉ 
テキサス出身のグループ、ジャズ・クルセイダーズは1961年にデビューし、西海岸で人気を得た。だがメインストリーム・ジャズからは異端視されたこともあり、70年にグループ名からジャズをはずし、ソウル、ファンク、ロックなどを積極的に導入してフュージョンの一つの核となっていく。彼らはグループとは別個の活動も行っており、ピアニストのジョー・サンプルは76年、ランディ・クロフォードのアルバム録音に参加したことがあり、79年のある日、カリフォルニアのマンモス・レイクスにいた時、彼はふと彼女のための曲を書こうと思い立ち、スキー・リフトの上で〈ストリート・ライフ〉というタイトルを決定。帰宅後すぐにメロディーを書き、ソングライターのウィル・ジェニングスの協力を得て完成。これをタイトル曲にした大ヒットアルバムは彼ら初のヴォーカル入りアルバムでもある。 
 
ラストも、誕生と同じニューヨーク ◉ 
1974年6月、ミルト・ジャクソンはMJQからの脱退を同僚パーシー・ヒースとコニー・ケイに宣言した。20年を超える活動をしながら、物質的に恵まれなかったというのがその理由である。彼らはロスとサンフランシスコで残る出演契約を済ませ、最後にもう一つ、7月14日にオーストラリアでコンサートを開き、公式的にはこれがラスト・コンサートとなった。だが帰国してみると、何故NYでのフェアウェル・コンサートがないのかという声が高まっている。そこで11月25日にエイブリー・フィッシャー・ホールで最後のコンサートが開かれることになり、解散4カ月後、再びメンバーは終結した。ジョン・ルイスによれば、淋しい反面もう明日はないのだという気持ちが皆を奮い立たせたというが、その模様を収録したのが傑作「ラスト・コンサート」である。その後彼らは81年の日本を皮切りに、何度か再結成している。 
 
日本に世界的リペア・マンがいる ◉ 
日本人は手先が器用なせいか、いろんな分野に世界的なひとがいる。例えばサックスのリペア・マン。リペア・マンとはその名の通り、修理をしてくれるひとのこと。東京は大久保にあるサックス専門ショップでの話。ここは来日したサックス・プレイヤーの聖域でもある。何でも世界最高のリペア・マンがいるという。マイケル・ブレッカーなど、日本に着くやいなや彼のもとへ馳せ参じて何本もサックスの調整をしてもらった。普段使わないサックスまで、この際だからと持ち込むプレイヤーもいる。もっと凄いのはデビッド・サンボーンで、彼はレコーディングを前にして、楽器を調整して貰うためだけにわざわざこの店を訪ねたことがあったという。 
 
アイク・ケベックがファンキー派に変身 ◉ 
もともとスイング派のサックス・プレイヤーだったアイク・ケベックだが、1960年代初頭にカムバックしたときにはファンキー派のテナー奏者に大変身していた。そもそも彼が引退したのは仕事が減って、音楽で食べていけなくなったからである。そこでケベックはブルーノート・レコードの運転手として雇われる。マンハッタンのブルーノート・レコードのオフィスからヴァン・ゲルダー・スタジオがあるニュージャージーまでミュージシャンを運ぶのが仕事。ときたまサックス奏者がメンバーにいるときは、楽器を借りて時間潰しに吹いていた。それに目を付けたのがプロデューサーのアルフレッド・ライオンと、たまたま彼にサックスを貸したキャノンボール・アダレイだった。当時のケベックは自分のサックスを持っていなかった。そこでキャノンボールは余っていた楽器、テナー・サックスを渡し、さらにファンキーの神髄を伝えるべくさまざまなテクニックを伝授したのである。 
 
ペッパーが感動のデュオを残す ◉ 
オーストラリア、カナダ、日本などへのツアーを終えたアート・ペッパーは、帰国後の1982年4月にはNYの "ファット・チューズデイ " に出演する。この頃には彼の足には腫れ上がり、痛みさえ感じなくなっていたらしいが、それでもなお演奏には鋭さや緊張感があったという。そして彼はカリフォルニアへ戻り、晩年多くの行動を共にしたジョージ・ケイブルスとのデュオを制作する。スティービー・ワンダーの〈イズント・シー・ラブリー〉はジョージ、〈ドント・レット・ザ・サン・キャッチ・ユー・クライン〉は、レイ・チャールズの熱烈なファンであるペッパーの希望によって、5月11日と12日に録音された。ペッパーの愛妻ローリーは、最も穏やかで安らいだセッションだったと回想している。このデュオ作品「ゴーイン・ホーム」がペッパーの遺作になった。 
 
サラはエラとの初共演がラストに ◉ 
クール・ジャズ・フェスティバルのプロデューサー、ジョージ・ウェインは1980年代、サラ・ボーンのギャラを1回のコンサートにつき2万5千ドルから3万ドル、場合によっては3万5千ドル支払っていた。だがある時彼女はエラ・フィッツジェラルドのギャラの方が高いことを知り、ウェインを問い詰める。彼はサラとの仕事の方がずっと多く、またエラは年間にせいぜい10回ぐらいしかコンサートができないからと釈明し、サラのギャラを上げる約束をした。サラにとっては金の問題だけではなく、プライドの問題もあったのだろう。この2人が唯一共演しているのが、89年録音のクインシー・ジョーンズ「バック・オン・ザ・ブロック」。〈バードランド〉のイントロで、短いデュエットが聴ける。サラは90年4月2日にもクインシーとレコーディングする約束をしていたが、それを果たせず、4月30日に亡くなっている。  
 
メロディ・メーカーからアドリブ・フレーズ ◉ 
スウィング時代のテナーと言えば、コールマン・ホーキンス、レスター・ヤング、ベン・ウェブスターの3人。彼らがモダン・テナーに及ぼした影響は計り知れない。その他、1930年代半ばから素晴らしい活躍をしたのが、大物ベニー・カーター。エリントン楽団で活躍のジョニー・ホッジスもカーターと並んでスウィング期を代表するアルト奏者。スウィング時代のサックス奏者には、概してメロディ・メーカーが多い。それはテクニック面での発展がその後に比べて遅れていた分、歌心でカバーしていたのである。そして、それまでのスィング・ジャズに飽き足らなくなった若いミュージシャンたちが、さまざまな工夫を凝らして完成させたのがビ・バップである。最大の功労者はチャーリー・パーカー。パーカーと並んでこの時代に頭角を現してきたのがデクスター・ゴードン、ジーン・シモンズ、スタン・ゲッツたち。スウィング・ジャズに比べると、ビ・バップはメカニカルなフレーズに大きな特徴がある。その結果、ダンス音楽が主流だったスウィング・ジャズとは違って、ビ・バップはホットなソロ合戦を売りものにすることで観賞用の音楽として多くのファンから愛好されるようになる。 
 
幻ということばがよく似合うプレイヤー ◉ 
隠れファンを多く持つティナ・ブルックスは、1950年代前半はリズム&ブルースで活動し、その後ジャズの世界へ進出。代表作と言われる60年録音「トゥルー・ブルー」は、すぐに廃盤になってしまったこともあって、一般的な知名度を得ぬままに消えてしまった。それだけに、本国アメリカでもブルックスの存在を知っているひとは少ない。この収録曲はどれも適度な哀愁をもっており、アルバム全体が不思議な雰囲気に包まれている。なかでも聴きものは〈ミス・ヘイゼル〉、フレディ・ハバードが吹くメロディーにブルックスが美しくハモり、曲の良さを増幅させている。だけども、このアルバムはほとんど売れなかったという。したがって一部のファンが血眼になって探す幻の名盤になってしまった。現在はもちろん、彼の残した吹込みがほとんど聴くことができる。 
 
既成概念を打破し、自由をめざした ◉ 
1950年代後半、セシル・テイラー、オーネット・コールマンたちが始めた演奏がその後フリー・ジャズとして認知されるようになった。既成の概念に捉われず、文字通り自由な演奏を謳歌するこのスタイルは、アヴァンギャルドな手法を取り入れた所から前衛ジャズとも呼ばれる。コールマンから影響を受けたジョン・コルトレーン、そのコルトレーンに刺激されて頭角を現したアーチー・シェップ、アルバート・アイラー、ファラオ・サンダース、あるいは叙情的なサウンドで独特の境地を築いたマリオン・ブラウンらの個性派が60年代に台頭した。その他、典型的なフリー派ではないが、従来のスタイルから大きく逸脱してユニークな世界を追求したエリック・ドルフィー、ローランド・カーク、ブッカー・アービンらも、このカテゴリーに入れていい。70年代にはデューイ・レッドマンやデビッド・マレイが注目を集めていた。 
 
スイートでビターな思い出 ◉ 
サックス奏者の最高峰ソニー・ロリンズ、彼にも、少年時代に微笑ましいエピソードが残されている。ハーレムで育った彼がテナー・サックスを手にしたのは10代初めのこと。来る日も来る日も練習に明け暮れていたロリンズに、父親はある日コールマン・ホーキンスが吹く〈ボディ&ソウル〉のSPを買ってくれた。この演奏に夢中になった彼は、やがてホーキンスが同じハーレムに住んでいることを知る。そこである日、ロリンズは意を決してホーキンス宅を訪れた。しかし仕事に出かけた彼は留守で、待つこと10時間近くに及ぶ。夜半に帰宅したホーキンスは、家の前で呆然と立ちすくんでいるロリンズ少年を見つける。事情を聞いて喜んだホーキンスは、妻に命じて温かい夕食を彼に与え、その後、レッスンを付けてくれたという。しかし、家に帰ったロリンズを待っていたのは、夜遊びと勘違いした両親のきついお仕置きだった。 
 
マッコイのデビューは作曲家
ジョン・コルトレーンの作品で、1958年の初めと終わりに行われた2種類のセッションで録音されたPrestige盤「The Believer」は、マッコイ・タイナー作曲のタイトル曲〈The Believer〉を演奏しています。つまりマッコイは、ピアニストとしてより前に作曲家としてレコーディング・デビューしたわけです。マッコイとコルトレーンは1955年頃に知り合ったというが、この作品に入っている〈Nakatini Serenade〉は、2人を引き合わせたカル・マッセイが作曲したナンバー。(マッコイが17歳の時、カル・マッセイ・バンドに加わっていた。)この曲はリー・モーガンが「Lee Way」(Blue Note)で曲名を〈Nakatini Suite〉に変えてとりあげている。。